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歴史

以下の文章は、西光寺に残る『西光寺史』(11世の書)を文章に起こしたものです。資料となるよう、なるべく原文に忠実に入力してありますので、表現などご寛恕ください。

歴史(西光寺史)

<創立年時>
 創立年時不詳なるも往古天台宗に属し、中途臨済宗建長寺派となり(七韋駄天と称し建長寺より末寺としての西光寺他6ヶ寺に分●せられたる記録あり)本寺龍拈寺創立と共に末寺となった。(註:●=祀か?)
 その年時を慶長六年(1601)2月15日とした。然しその年時は黒印三石を頂戴した日である(伊奈備前守証文あり)


 創立時の開基は不明あるも当初は今橋城*に対する四隅の拠点として城内鎮守である金柑丸稲荷を当山の鎮守としている事から砦であった所に創立したとの説がある。(*現在の吉田城)


 草創開山祖庵英彭大和尚は龍拈二世であり大永5年(1525)5月7日の示寂である。
 慶長6年改宗した時点では開山大和尚は示寂後の事であり、只本寺龍拈寺に於いても四世休屋宗官大和尚の開創によるものであるから勧請した事となる。ただ、
  當山中興開基 法瑞貞性尼首座
の位牌が古来安置せられているが示寂年時不詳である。

<嘉永の被災と復興>
 嘉永2年極月24日夜八つ時隣接の芝居小屋より出火、全伽藍を焼失す。但し山門のみ残る。当時本堂は東向きであった。
 嘉永2年焼失後、碧海郡堤村瑞應寺二〇世一山隆傳和尚来住して復興に努力し宝飯郡篠束村医王寺旧本堂を譲り受け移築し、その他庫裡を再建す。
 尚、伽藍焼失と共に本堂も炎上した為、隣寺天台宗神宮寺位牌堂に安置せる阿弥陀如来を勧請して本尊とした。
 徳川初期の製作にして秀作と云われた。又復興の為、旧時より吉田神社祭礼に山飾を出し当寺はその第4番目の剣鉾の山車を出しており、その為、城主より米2俵を受けていたが、特に許されて20俵を頂戴して復興の資とした。

 

<法地開闢>
 嘉永焼失後来住した一山隆傳和尚は伽藍復興と共に法地開闢して第一世となった。

 

<疲弊の極み>
 前記の如く復興に又法地転格して緒についた感があったが何分当時の情勢は廃藩についで維新と混迷の最中で住職は寺子屋を経営してその任を守った。往時相当の境域を有していたが殆ど抵当の資となり現在神明町に寺有地あり僅かにその名残を留めている。
 尚、明治2,30年頃は檀信徒40戸程でその檀徒は寺債の為、日掛けして返済したとの古老の言あり。

 

<復興第一期>
 八世泰道和尚は明治34年七世聞??和尚より住名を譲り受け(証文あり)第八世となり荒廃せる寺門の復興につとめ又布教師として工場布教(当時市内に製糸工場多数有り)に軍人布教(第15師団を中心に)にと活躍した。
 尚大正6年に煉瓦塀を構築、同時に書院、位牌堂開山堂を新築する等、面目を一新した。一方宗務に関しては宗務所長、宗議会議員となり、後大本山永平寺副監院を勤められた。これにより檀家四來す。

 

<復興第二期>
 大正8年八世和尚松源院晋住せらるについて法嗣道雄和尚九世となり昭和7年多年の宿願であった庫裡を総二階建にて改築し次いで新書院、倉庫二棟、庭園等を新しく構え昭和8年碩学岸澤惟安老師を拝請して大授戒会を修行した。
 昭和12年墓地の大整理を断行した。尚教界に於いては多年教区長をつとめ、或いは豊橋仏教会長として尽瘁せられた。

<太平洋戦争の罹災>
 昭和20年6月19日夜米軍機の来襲により山門のみ残し全伽藍を焼失。戦後寺有農地も解放されるに至った。十世茂道和尚の代であったが兵役についていた為、代務者として法叔小林泰然和尚の助力を得た。

 

<戦後の復興>
昭和21年 仮庫裡
昭和23年 仮本堂
昭和23年3月 十世茂道大和尚本葬
昭和24年 仮庫裡増築
昭和35年 鉄筋コンクリート造り印度様式本堂新築・梵鐘再鋳
昭和36年3月 大本山永平寺73世熊澤泰禅禅師を拝請して大授戒会を修行
昭和52年 鉄筋・鉄骨にて位牌堂・庫裡を新築 両祖大師開山尊像を安置

​『豊橋寺院誌』より

                 一一世 誠道記
 当寺の創立は慶長6年(1601年)2月15日、開山は竜拈寺二世祖庵英彭和尚と伝え、大口氏もこの説を採っている(其の附近)が、英彭の示寂は大永5年(1525)5月7日で約76年前であるからこの伝説には何かの誤りがある。
 仏閣記に
   日東山西光寺 客殿五間四方 竜拈寺末平僧
   黒印三石 伊奈備前守様御証文有之
とあり、間数録にも同様な記載がある。伊奈備前守がこの地方に黒印証文を出したのは、大体慶長6,7年が多い(例:花谷院黒印慶長6年2月10日)から寺伝慶長6年2月15日はこの黒印三石頂戴の日を誤り伝えたものと思われる。

 

 松山町正林寺の縁起中、往時鎌倉建長寺から韋駄天像7体を送り来たって同寺の末寺に分与した。これを七韋駄天と称し、その七ヶ寺とは、松林寺、西方寺、喜見寺、楽法寺、真福寺、正光寺であるという記事がある(吉田綜録)が、この中の西方寺は恐らく西光寺の誤写と思われる。禅宗西方寺の名称は宝飯郡旧久保田村にあった廃寺西方寺の外なく、又七ヶ寺中他の六ヶ寺が近接しているのに、西方寺のみが遠隔の地にあるのは不自然と思うからである。

 

 若し果たして西方寺が西光寺即ち当寺であるとすればその創立は相当古く、中世には建長寺末の臨済宗で、この古跡に対して慶長6年黒印を授けられ、同寺に曹洞宗に改めて、英彭和尚を追請したことになる。この点後考を俟つ。
 

 当寺の本尊阿弥陀如来について大口氏は「この仏像は元神宮

寺にあったものを当寺に勧請したとの伝説があるが、今の神宮寺牌堂安置の仏像と同一様式で、徳川初期の製作であると思う」と評しているが、その由緒等は明らかでない。
 

 旧幕時代吉田神社祭礼の時神輿の渡御には市中5,6ヶ寺から山飾を出したが、当寺はその4番目で剣鉾(往時は青竜刀)の山車を出し、これがために城主から年々米2俵の支給を受けていた。(吉田神社誌)この習慣は明治3年に廃止となった。


 当寺は又旧幕時代寺子屋を開いて町民の教化にあたっていたが、今は文献がなくて明らかでない。嘉永2年(1849)12月24日隣接の吉田常小屋からの出火に類焼して旧記什宝一切を焼亡した。その際直ちに小坂井篠束の名刹医王寺の旧堂を譲り受け、同4年1月吉田神社の祠官石田秀堅を通じて前記の祭礼給米10カ年分を前借して普請再興した本堂が6月20日の兵火に焼けた当寺の本堂である。
 明治中期以来当寺は酉の市祭礼を年中行事の一としたが、賽客雑沓して戦後の現在も継続されている。(後略)

(豊橋仏教会編・豊橋寺院誌編纂委員会 昭和34年8月30日発行 P.84~)

豊橋寺院誌
歴代住職

<創草開山>

祖庵英彭大和尚

  大永5年(1525)5月7日示寂

  竜拈寺二世 福厳寺四世

<法地開闢開山>

一山隆傳大和尚

  慶應3年6月4日示寂

  瑞応寺二〇世(豊田市)

  観正寺伝法開山(西加茂郡三好町/現:みよし市)

  竜昌寺?世(武州足立郡前砂村)

二世 佛仙石鼎大和尚

  明治40年3月16日示寂

  瑞應二十二世(豊田市)瑞應二十一世英山祖雄大和尚法嗣

三世 泰山祖田大和尚

  明治36年8月8日示寂

  明治9年當山住職

  明治18年 退山

  小池潮音寺にて遷化

  瑞應二十一世英山祖雄大和尚法嗣

四世 大量百如大和尚

  昭和12年2月15日 示寂

  明治18年當山住職

  西福寺四世(豊橋市岩田)

五世 大光靈源大和尚

  昭和13年2月15日 示寂

  全福寺五世(豊橋市杉山)

  総持尼寺三世(岡崎市)

六世 機外廉𠀋大和尚

  ? 示寂

  龍門寺二十五世(田原市)

  宝雲伝法門開山(田原市)

七世 不昧聞𠀋大和尚

  昭和33年8月?日 示寂

  明治25年住職

  三光寺二〇世(明治34年転住・遠州家山)

八世 得学泰道大和尚

  昭和14年10月16日 示寂 世壽72歳

  明治34年住職

  満目院三世

  松源院二十三世(大正8年晋住)

  昭和教化団を組織 工場布教軍人布教に従事

  宗務所長 宗議会議員 大本山永平寺副監院

九世 中興 仙山道雄大和尚

  昭和14年8月31日 示寂 世壽45歳

  大正8年住職

  昭和7年 庫裡・書院を新築し、翌8年に岸澤惟安老師(大本山永平寺西堂)を拝請し授戒会を修行す

 教区長・豊橋仏教会会長を歴任す

十世 大安茂道大和尚

  昭和19年6月24日 示寂 世壽32歳

  昭和14年住職 

  昭和16年12月8日開戦する太平洋戦争(大東亜戦争)に昭和18年1月に招集され南シナ・インドを経てビルマ作戦に参加、印度国アッサム州四二四一高地にて戦死?

 

十一世 實山誠道大和尚

  昭和59年6月24日午後10時58分 示寂 世壽61歳

  昭和43年 大本山永平寺副寺に就任(財務担当)

  昭和51年 大本山永平寺二祖国師大遠忌総務部長に就任

  昭和54年 大本山永平寺副監院に就任

十二世 禅岳智司大和尚(現董)

歴代住職
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